ある夏の出来事 2 (作・紫月さん) 別荘へ行く前の晩、オレはに悪いことをした。 いや、はそうは思っていないんだと思う。 何しろ、オレがひとり拗ねただけで、そんな素振りはこれっぽちも見せなかったから。 「ごめん――」と頭を下げられても、最初何のことか分からなかった。 「明日、仕事入っちゃって――」 行けなくなった、そう言ってまた、ごめんと続けるに心がチクッと痛んだ。 何度もごめんを連発されたら、素直になれなくなった。 オレは謝ってもらいたいんじゃない、もっと残念がってがっかり…そんなを見たかっただけのに―― オレだけが楽しみにしてたのか…そう思うと、じくじくと心が軋んで、空が崩れ落ちる音がした。 「――寝る」 内心の動揺を気取られまいと、いつものように言い捨てた。 のベッドの足元で膝を抱いてうずくまり、何でもなかったように眠ったフリをした。 明け方、ほの明るい部屋の中、カチャとドアが閉まる音が聞こえた気がして目を開けた。 は、もういなかった。 ぽかっと膨らんだ布団、の抜け殻に勢いよくダイブした。 ほんのりと残っていたの体温が、少しずつ冷めていく。 すっかり自分の体温にすりかわったそれをきゅっと抱きしめた。 置いてけぼりを食らった自分に、泣きたくなった―― だから久しぶりに木の上で眠ろうとしたのは、埃っぽさがイヤだったからじゃない。 もう随分長いこと、外で寝るなんて考えもしなかった。 同じ部屋、同じベッドの上、布団ごしに感じるの息遣いとぬくもり。 当たり前のようにそう過ごしていた分、それがない場所がひどく寒々しくうつろに思えた。 そんな処で平気を装って眠る自信など、爪の先ほどもなかった。 固くて、バランスのとりにくい枝。 よくこんな場所で寝ていたもんだな――、そう過去の自分に驚嘆した。 まさにその時、――不覚にも木からすべり落ちた。 「チッ、鈍くさいな」と言ったつもりだった。 にゃごにゃご……そんな声が、少し遅れて、耳に届いた。 (え…っ!?) 聞き覚えがありすぎる、このクセのある低音は―― (…オレ?) 頬がひくひくいっている。 (おいおい、飛影、そんなバカなことがあるはずが…) そうだ打ち消してしまえとぱちぱち瞬きをしてみたが、身体の方はやはりというか、やけに気持ちに正直で困る。 顎はとっくの昔に下を向いていて、――ガガーンとショック状態に陥った。 …ど、こ、も、か、し、こ、も、毛だらけじゃないかぁっ! さらに追い討ちをかけるようにぬぅっと影が走った方へ目を向けると、――しっぽ、がゆらゆらと揺れている。 そしてそれは自分の腰へとつながっている…… な、ん、な、ん、だ、これわっ!!! ブンブンと頭を振ると、背中にズキンと雷が走った。 どうやら、オレは、よほど変な落ち方をしたらしい。 「くそぅ」 情けないが起き上がれない…そう観念したオレは恨めしげに別荘へと首をひねった。 煉瓦造りの塀の向こう、木製の腐りかけた扉が見えた。 ――まあいい。 掃除が済めば、桑原は一目散で「雪菜さぁん〜♪」と駅へ向かうだろう。 通り道であるここで寝ていさえすれば、誰かがオレを拾い上げるに決まってる。 思い至ったオレがふぅっと安堵の息をつくのと、背後からひょいと抱き上げられたのは、――ほぼ同時だった。 つつっ、と鼻先にミルクの入った器が置かれた。 オレはちろっと上目遣いでを見つつ、ペロッと舌をつけた。 「おいしい?」 が思いついたように横になって、オレと視線の高さを合わせた。 頬杖の上に整った顔を乗せて、オレをじぃっと見つめている。 あんまり思いつめたように見るから、どこか身体の一部が人間に戻ってるんじゃないか? と心配になって、オレは素早く自分の身体にチェックを入れた。 どこもなんともない、大丈夫だ、落ち着け…とホッと胸を撫で下ろす。 「…飛影…」 そんなオレを眺めていたが、唐突に呟いた。 ドキン!!鼓動が爆発的に飛び跳ね、目が白と黒を行ったり来たりする。 「――がね、いなくなっちゃったんだ…」 …ってネコに言ってもしょうがないんだけど…、自嘲したをハッと見上げた。 その表情が曇っているのに気がついて、オレはきゅんと切なくなるのと同時に、 確かに喜びがこみ上げるのも感じた。 にゃん…?(でもお前、仕事だって…?) にゃにゃん……(朝だってオレをほったらかして……) ――寂しかった分だけ、憎まれ口がひとりでにこぼれた。 「あーあ、一緒に来たかったなぁ…」 聞きたかった言葉が耳と心をくすぐった。 「間に合うかどうか分かんなかったから、行けないって言ったけど…。 それでも必死で仕事済ませて飛んできたけど…」 会いたかったなぁ…、そう言っては目を伏せた。 長いまつげが光ったような気がした。 オレは腕で抱きしめるかわりに、身体中ですりよった。 「…いいコだね…」 がオレを抱き寄せて、オレはすっぽりと胸の中におさまった。 ――あれからずっと、オレはネコのままだ。 いや、信じられなくて当然だ。 オレだって、あれから一年経った今でさえ、まだ夢じゃないかと思うんだからな。 おっ、もうこんな時間か。 あと少ししたらオレは人間に戻れる。 とは言っても、今日みたいな満月の夜、朝が訪れるまでだが――。 ああ、本当ならこんな生活は、不便で苦痛で仕方ないんだろうがな。 「もうちょっとだね…」 ほら、こんな風にがにっこり笑って頭を撫でてくれるから。 だから、こんなネコでいる暮らしも悪くない―― 飛影は前足を揃え、神妙な目つきでじっと壁を見上げた。 時計の針が、11時59分を指している。 「あと1分だ…」 ひょいとの膝の上へ飛び乗って、にゃおんとしか聞こえない声で飛影は嬉しそうに喉を鳴らした。 End |